扇塚


神社地は古くは島で
江戸時代の始めに毛利藩によって
陸続きにする埋め立て工事がおこされた

しかし海峡の潮の流れは
ひと岩沈めればひと岩を流す急潮であり
工事は多大の工費と、人の命を犠牲にするのみで
なかなか成し遂げられなかった

時に稲荷町
(現・赤間町。当時江戸の吉原・京の島原につぐ三大遊廓)
の「お亀」という
疱瘡を病み顔に「アバタ」のある遊女が
町かどに立った人柱募集の高札を見て
「我が身を滅して功あるならば」と人柱に立ち
月夜の海に
白衣に身をつつみ、海に身を投じて
埋立の礎石となった

時の人は「お亀」の至誠に感じ難工事を完成し
「お亀」の霊を慰め功績を讃えて
銀杏の木を境内に植えた

銀杏は毎年秋に無数の実を結ぶが
不思議にも実にはたくさんの斑点があり
お亀さんの顔のあばたが残ったものと伝えられている

明治のときに天然痘が流行した時など
疫病除けのお守りとして多くの人に求められた

昭和の戦禍にあったが
お亀さんの遺志を継ぐかのように新芽が成長し今なお母なる木の面影をしのばせている



五穀祭、八丁浜総踊りに先立ち
お亀明神前で
「お亀明神顕彰祭」
毎年行われている


昭和初期の八丁浜
神社では5月に五穀豊穣を祈る五穀祭が行われるが
氏子中では
「八丁浜エラヤッチャ」と合いの手を入れ
八丁浜の囃しに合わせて杓子を叩いてシャギリ踊る
八丁浜(ハッチャハマ。八丁浜踊り、八丁浜シャギリともいう)
が行われる

「八丁浜」とはお亀さんの犠牲により
埋め立てられた浜地の広いことを言い
「エラヤッチャ」とは、お亀さんは偉い奴だの意味

かつて毛利藩は
派手な歌舞音曲や酒宴などを禁じていたが
八丁浜の期間中は
各所に「賑わい勝手」の高札が立てられ
どんなに騒いでも咎められることはなかった

戦後この行事は衰退したが
昭和60年市民祭として開催されることになり
しものせき海峡まつりにあわせ賑やかに復活し継承されている