関の氏神 亀山八幡宮
由来

五穀祭・八丁浜

由 来
五穀豊穣を祈る神事。もともとは八朔(はっさく)祭りと呼ばれ、8月1日から3日間執り行われていましたが、明治に入り新暦が採用された頃から5月に移行したと伝えられています。
文久の時代(1861〜64年)に書かれた金子文輔の『馬関攘夷従軍筆記』には、「元治元年(1864)8月1日 晴、本日より3日迄3日間当地五穀祭執行…」とあり、江戸後期には既に五穀祭と呼ばれていたことがうかがえます。
又、文学者林房雄は『青年』(大正7年作)の中に、「はっちゃはま、えらいやっちゃ。下関の街は、五穀祭の行列でわきあがっている」と当時の五穀祭の様子を伝えています。
「はっちゃはま、えらいやっちゃ」とは、お亀さんの功績を称える言葉で、「はっちゃはま(八丁浜)」はお亀さんの犠牲により埋め立てられた浜地の広いことを言い、「えらいやっちゃ」とは、お亀さんは偉い奴だとの意味です。
江戸時代、毛利藩は派手な歌舞音曲や酒宴などを禁じていましたが、このお祭り期間中は各所に「賑わい勝手」の高札が立てられ、どんなに騒いでも咎められることはありませんでした。
戦後この行事は衰退しましたが、昭和60年市民祭で「八丁浜総踊り」として開催されることになり、現在は「しものせき海峡まつり」にあわせ賑やかに継承されています。