関の氏神 亀山八幡宮
亀山能

秋季例大祭

亀山能

亀山能について

翁渡式(おきなわたししき)
 亀山能の歴史は、安土桃山時代まで遡ります。
 文禄元年(1593)豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄の役)の為、肥前国の名護屋城(現在の佐賀県唐津市)に向かう途中に下関に滞在します。その時、当宮で戦勝を祈願され、陶器の獅子を奉納し、蘇鉄(太閤蘇鉄)を植えられます。
 その後秀吉は当宮で、文禄の役の戦勝感謝と、初陣を果たした初代長府藩主毛利秀元を始め、武将の労をねぎらう為に能を奉納します。
 以後、秀元寄進の「翁面」(秀吉から下賜されたと伝わる)をもって、秋季例大祭に神能を奉納する習わしとなったといわれています。
 途中、催能自体は中絶の時があっても、翁面の前で神歌を奉納する古式は途切れることなく現在まで続いています。
豊臣秀吉寄進の高麗獅子
秀元寄進の翁面
翁面を納めている面筥
 江戸時代の記録には、催能費は藩費をもってまかなわれ、催能にあたって毛利藩主、藩の目付役、阿弥陀寺住職、鎮守八幡宮の神輿、亀山大宮司などの見物席が設けられていたと記され、一般の人は拝観かなわない格式ある能であったと記されています。
 古くから歴史に富んだ下関には、有形・無形の文化財が沢山ありますが、中でも亀山能は下関市の無形文化財第1号に指定されています。また、毛利秀元が奉納した翁面(三面)は、面を納める面筥とともに有形文化財に指定されています。
昭和初期の絵はがき
 絵はがきの能舞台は、昭和20年の下関空襲で焼ける前のものです。
 元禄3年(1690)、長府藩第3代藩主毛利綱元が参勤交替の途中に、周防灘で乗っていた船が転覆せんばかりの暴風雨に遭います。綱元をはじめ藩士たちが「八大龍王 雨やめさせ給ふ 風やめさせ給へ」と、天神地祇に加護を祈ったところ、惣然と亀山の翁が海上に現れ、その導きに従って舵をとり、危うく遭難をまぬがれました。その報恩感謝のため、綱元は能舞台を寄進します。
 文政11年(1828)8月9日、下関を襲った台風(文政の大風・シーボルト台風)で綱元寄進の能舞台は倒壊しましたが、伊藤家(伊藤本陣)、佐甲家、広石家の豪商が中心となり、翌年に再建されました。
 しかし、その能舞台も戦禍に遭い焼失。
 戦後は、昭和27年(1952)境内に開設された下関市立亀山保育園で、昭和45年(1970)の閉園まで催能されていました。
 平成元年(1989)亀山八幡宮儀式殿竣工。関係者の御尽瘁により、この儀式殿に仮設能舞台を設け、20年ぶりに亀山能が再復興されました。
 その後、毎年催能しておりましたが、令和2年(2020)は新型コロナウイルス感染症拡大にともない中止に。
 令和3年に文化庁文化芸術活動支援事業の指定を頂き、観世流・金剛流のご奉仕で二日間に亘って催能できましたが、催能費の関係で令和4年の亀山能楽会と亀山八幡宮との協議の結果隔年での催能と決まり、この年は亀山能の開催はされず、亀山能の歴史などを勉強するワークショップが行われました。
昭和初期の絵はがき

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